2015_02_01
昨年末に本当に悲しい出来事があり、まだ心の穴が埋められないままにいるような状態です。心にぽっかり穴が開く、なんてドラマや小説の中の出来事のように思ってましたが、本当にそうなることがあるんですね。
中村秀利さんが急逝されてから1か月が経ちました。あまりの出来事に我を忘れて泣きました。ただただ泣きました。人生で一番泣いたかもしれません。泣くことしかできなかった、そして心の底から泣きたかった。
私は、中村さんのことを師匠と呼んでました。初めてお会いしたのは、30年ぐらい前でしょうか。私が最初に所属していた劇団の公演にゲストで出演された時です。当時、私は役者というより裏方の方を主に担当しておりまして、初めて稽古場にいらしゃった中村さんに台本をお渡ししたのが最初の出会いです。「この度は、ありがとうございます、お世話になります。久保田と申します。」椅子に座っている中村さんに膝をついて台本を渡しました。中村さんは、ほとんど聞き取れないような小さな声で『あ、どうも、宜しくお願いします。』とだけおっしゃたのを憶えています。とってもシャイな方というのが第一印象できっとものすごく気難しい方なんだろうなあ、と思っていました。公演終了後に中村さんにギャラの振込先を訪ねるのにご自宅に電話したのも覚えてます。この電話が初めての電話でした。それからしばらくして、ラジオドラマで一度だけお会いしました。中村さんが主役で、私が本のチョイ役で、ガソリンスタンドの店員役でした。その時もスタジオではほとんど会話らしい会話も無くお別れしてしまいました。それからまたしばらくしてお会いしたのがNHKです。そう、「つくってあそぼ」の試作番組の第2弾で、平成元年10月のことです。実は、この番組で初めてゴロリくんがテレビに登場したのです。
NHKの702リハーサル室でお会いした時は、お互いに本当に驚いたのを憶えています。まさかこんな形でご一緒するなんて夢にも思っていませんでした。中村さんは、相変わらずとってもシャイな雰囲気でした。私としては全く知らない人より何度かお会いしている方で幾分かは安心しました。この試作番組は、リハーサルを含めて3日間で終わり、何事もなく中村さんとはお別れしました。この時、まさかその後、20年以上もお付き合いするなんて考えもしませんでした。そして、平成2年1月にNHKでレギュラー化する「つくってあそぼ」の収録のため中村さんにお会いしたのです。さすがにここまで来ると中村さんもすっかり打ち解けてお話しできるようになりました。ここでやっとわかったのが中村さんはもの凄く人見知りする方だったのです。でも一度打ち解けてしまえば、これ以上ないほど人懐っこい方に変身するのです。
その上、中村さんは年下の人間に心を砕かれる方でした。「くぼっちゃん、あのさあ、ここの部分だけど、俺が思うには」これが中村さんの口癖でした。そこから、演技に対する意見や忠告をたくさんしゃべってくれました。中村さんは、ご自身でも数多くの舞台で出演されていて、私なんか足元にも及ばないほどの出演経験をお持ちでした。仕事としては、アニメの声優が多かったのですが、本当は舞台俳優です。中村さんはアニメとは言わず「マンガ」とよく言いてました。「つくってあそぼ」の収録は、台本がもちろんあるのですが、私とゴロリくんの会話には多くのアドリブの部分がありました。特にゲームの部分はほとんどアドリブです。中村さんは、小さなモニターテレビを見ながら私のアドリブに対して絶妙な返しのセリフを言ってくれていました。舞台経験が冨豊富な中村さんでなければできない技です。
収録が終わった後はよく飲みに行きました。酒が大好きな方でした。「ここんところ飲み過ぎで胃が痛くて参っちゃった。」と言いながら胃薬を最初のビールで飲んで、そのまま明け方まで飲み続けたこともありました。飲みながら野球の話(私も中村さんもジャイアンツフアンです)から始まって、お互いのかみさんの悪口を言い合ったりしてましたが、最後は必ず芝居の話をしてました。その時の目は、いくら酔っていても鋭いものがあり、聞いていて勉強になることばかり。たとえテレビであれ芝居をするということには変わりがない、舞台と同じでテイク1(つまり、一番最初の本番)で最高の芝居をするのが役者の仕事だと言っていました。NGばかりの私には耳の痛い話です。なにしろ、中村さんは23年間の収録の本番中にNGは3回しかでしていません。
それからこんなこともありました。番組がスタートしてまだ間が無い頃、リハーサルの段階からNGばかりで全くうまく行かない私に中村さんは、「どう?今夜行く?」とだけ言いました。渋谷の焼き鳥屋から始まって、西荻窪のスナックで終わるまでおおよそ9時間もただただ飲んで歌ってました。収録でうまく行かないことや私の演技上の問題などは一切言わずに翌日の収録のことなんか忘れたように飲んで歌いました。もちろん、翌日の収録はガタガタでしたが、これを境に何かが吹っ切れたような気がしたんです。それ以来、私は中村んを師匠と呼ぶようになりました。くどくど言うようなことは一切なく、仕事に対する姿勢で私に多くを語ってくれた中村さんでした。
私はこれから誰の背中を見て進めばいいのか、前が見えない日々がしばらく続きます。