わたし・久保田雅人(くぼた・まさと)のまわりで起きた「あんなことこんなこと」・・・。
全国でのイベント裏話や名物・名産、身の回りでのささやかな「出来事」をお話していくつもりです。
お読み頂いたご感想やご意見もお寄せください。
登場人物は、ひょっとしたら、「あなた」かもしれません


今年も、全国を飛び回ることになりそうですが、
どうやら、わたしは、昔から旅をして回る運命だったみたいです ... というお話... です。
今回は、残念ながら写真がありません。僕の子ども時代の写真とかあったら、よかったかも・・・



 今月も、写真がありません。
ちょっと殺風景ですみません!

2008_02_01
 
この「日々つれづれ」を読んでくださった方からよく言われるのですが、
「わくわくさんは、本当によくいろんなところに行かれるのですね。
その移動だけでも大変でしょう?」
「そんなに旅ばかりで、疲れませんか?」などなど。
疲れないといえば嘘になりますが、
こんな生活を15年以上続けていますと慣れとでも言いましょうか、
あまり『苦』には、感じません。
そして何より私自身が旅が大好きなのです。
そこで私の旅の履歴書を今回は、ご紹介します。

  まずは、私がここで言う旅とはなにかからはじめましょう。
第一に自分で行程を決めたものであること。
どこに行くのか、どうやってそこにたどり着くのか。
全てを自分で決めることが、大切です。
誰かに連れっててもらうのは、いけません。
そして、第二に一人で行くこと。
二人で行くのもいいかもしれませんが、特に三人はいけません。
必ず、旅先でもめます。
一人旅を楽しむ三人がとりあえず目的地まで一緒に行くのならまた別ですが、
三人が常に一緒に行動する旅は、いけません。
「あれしたい」「いや、こっちが観たい」といったように
意見が分かれた時に2対1になる可能性が非常に高いです。
一度そうなると旅の間中、三人がしっくりいかなくなります。
そして、なにより自分が見たいものが観れなかったり、
行きたいところに行けなかった責任を同行者に押し付けてしまうものなのです。
「あいつがあそこで賛同してくれたら素直に行けたのに。
あいつのせいで行けなかった。」と、思ってしまうのです。
だから、私の考える旅は、一人旅のことです。
自分だけですから全ての行動に対して自分で責任を取らなくてはなりません。
誰に気兼ねをせずに自分で思うがままに行動できる反面、
何があっても自分のせいであり、自分で解決をし、誰のせいにも出来ないのです。
旅は、楽しい反面、辛いものでなければ、ならないと思うのです。
その辛さの中にきっといい思い出が隠されているのです。
楽しいだけの旅は、本当の旅ではないような気がするのです。
だからという訳ではありませんが、私は観光バスが嫌いです。

  私が旅に目覚めてのは、高校2年の時でした。
担任の先生に進められたのがきっかけでした。
小説を読むのを進めてくれたのもその先生でした。
職員室で先生と二人で話をしていて、
その最後に先生が一人旅を進めてくれたのをいまでもよく憶えています。
その時、先生とどんな目的で二人で話しをしはじめ、
どんな内容の話をしたのかは、まるっきり覚えていないのですが、
旅をしなさい、その言葉だけ良く憶えていまして、その夏休みから始めました。

  先ずは、近場の鎌倉から始めました。
始発で出発をして一人で北鎌倉から歩き始めました。
ただひたすらに歩きました。
道を間違えて、全くの人家に入っていったのまで憶えてます。
気が向いたら江ノ電に乗ったり、なんとなく降りたくなったら電車を降りて
そこらを歩き回るのです。もちろん道に迷うことが多かったです。
いろんなところでいろんな人に道を聞きました。
親切な人もいれば、冷たい視線を浴びせて何も答えずに
行ってしまう人もいました。
知らない人に何かを尋ねるのって本当に勇気がいるのをその時知りました。

  本格的に遠くに行ったのは、高校卒業の時に行った木曽路です。
私は、無謀にも身の程知らずに共通一次試験を受け、
100%落ちると判っているのに
金沢大学の二次試験を受けに金沢まで行きました。
その帰りに木曽路を一人旅したのです。
中央本線を日出塩駅で降り、「これより南 木曽路」という石碑を見て、
そのまま歩き始めました。宿の予約は、一切無し。
行った先々でその日の宿を探してゆく旅です。
鳥居峠も歩いて越えて、木曽福島、寝覚めの床、馬籠宿、
そして南木曽の「これより北 木曽路」の石碑まで歩き通しました。
民宿では、客が私一人で食事は、民宿の家の皆さんと炬燵にはいいって
一緒に食べたのを憶えてます。
農協のおばちゃんたちが持ち回りでやっている
蕎麦屋で食べた山菜そばは絶品でした。

  そして大学時代には、日本国中を歩きました。
私の基本線として『その土地の本当の姿を知るためには、
その土地が一番しんどい季節にいくべきである。』というのがあったで、
夏に九州、四国を一周し、冬には東北、山陰を一周という無謀の旅をしました。

  夏の九州は、夜行列車で福岡に行き、
唐津、平戸、長崎、島原、熊本、人吉、鹿児島、桜島、
佐多岬、宮崎、大分、国東半島、小倉と周って
福岡から新幹線で戻りました。
国東半島では、ヒッチハイクも経験しました。
この旅も一切予約無しで、歩き回り、5キロ程痩せたものです。
冬の東北では、下北半島の突端まで行き、
吹雪で霞む津軽海峡の向こうに北海道を見ました。
道端の赤い公衆電話で実家に電話をかけてみると、
もの凄いスピードで落ちる10円玉に驚いたのをまだ憶えています。
1枚、1.5秒ぐらいの早さでしたよ。
そこで聞いた青森弁には度肝を抜かれました。
それまで聞いて育った日本語とは、
全く違う日本語の存在に感動すら憶えました。
例えば、「どさ?」「ゆさ。」これだけで、二人の日本人の会話なのです。
「どこへ行くの?」「銭湯に行くの」という意味なのです。
たった四文字で会話が成立するのです。
そして、青森弁は、青森市を境にして下北と津軽では違うのです。
青森、弘前、秋田、角館、盛岡、宮古、釜石、平泉、松島、仙台と廻りました。
遠野では、もの凄い吹雪で「東京の人が歩ける日じゃないねえ。」と、
駅員さんに止められました。
盛岡では、ふらっと飛び込んだお店でわんこそばに挑戦。
本来なら一人の客には、わんこそばは出さないのですが、
他にお客が誰もいないので特別に出してくれました。
始めは、どんどん食べれたんですが、30杯を越えてあたりから苦しいのなんの。
私一人にお店のお姉さんが付きっ切りですので、
蓋をするチャンスが全く無いのです。
お姉さんが持っていた45杯を食べきるのがやっとでした。
わんこそばが10杯で普通のかけそば1杯分だということをその時、
お姉さんから聞いて知りました。
45杯食べた証明書と記念の『栓抜き』をもらって、
ひいひい言いながら退散です。
それから一ヶ月以上日本そばは、見る気もしませんでした。

山陰では、吹雪の鳥取砂丘に佇む「らくだ」に胸を痛めました。
出雲大社では、鳩に襲われたのです。
冬の出雲大社は観光客も少なく、鳩に餌をやる人間が少ないのです。
つまり、鳩たちは、もの凄く飢えていたのです。
そんな事とは露知らず、一袋100円の餌を買った私に悲劇が待ってました。
袋を開け、餌を手にのせたその瞬間、
100羽を越える鳩の集団が襲ってきたのです。
最初は、ジワリジワリにじり寄ってきた鳩の群れが、
餌を手に乗せたまさにその瞬間、私の全身に飛び乗ったんです。
右手の先から腕、肩、頭と経て左手の先まで全て、鳩に占領され、
全身鳩まみれの『鳩男』状態になりました。
自分のものとは思えない悲鳴を上げて、
手にしていた餌を放り捨てると一目散に逃げ出しました。
それから一ヶ月以上鳩を見る気もしませんでした。

  とまあ、こんな風な一人旅をしていた私。
今頃、その時の見聞が役に経つとは、思いませんでした。
仕事で行く土地のほとんどが二度目、三度目なので、
昔を思い出してなつかしがったり、
土地の人とも妙に話が合ったりしています。
今年もあちこちに行くことでしょうねえ。
昔なつかしの思い出の地でもまた違った出会いがあるでしょう。
今度は、皆さんの所にお邪魔するかもしれません。

その時は、おもいっきり遊びましょうね。



私、牛には、もの凄く親しみを感じます
もう、お分かりですね、私、丑年です



これは、鹿児島の錦江湾で初めて見た潜水艦
    こんなのはじめて!






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