2011_07_01
先日、石川県金沢市にお伺いしました。私は金沢市に特別な思い入れがあります。
金沢市は、私にとっては第二の故郷とも言える場所です。
私自身は、東京都新宿区で生まれ育ったのですが、本籍は石川県です。正確に申しますと、石川県河北郡七塚町字木津でして、今はかほく市となっています。ここに私が行ったことのない本家があったのです。ここは、今は小学校の校庭になってます。ここで私の祖父が生まれ育ったそうです。そんなこんなで私の父は、金沢市内の高校を出ております。また、私の母も金沢市内の高校を出ています。母自身は、北海道小樽市で生まれたそうですが、なんやかんやあって金沢市で成長したそうです。母の兄弟全員が金沢市で成長し、金沢市内の高校を出ています。母方の祖母は、金沢市に長く住んでいたので、小さい頃は、夏になると母方の祖母の家に遊びに行きました。祖母の家は、金沢市彦三にありました。昔の長屋のような建物で狭くて急な階段を憶えています。近くの駄菓子屋に従妹と行ったのもよく憶えていて、5円のガムを買いました。生まれて初めて蛍を見たのは、金沢市内の兼六園です。当時は、無料で園内には入れました。近江町の市場の雑踏も憶えてます。俵屋のあめもよくなめてました。割り箸の先にひと塊だけつけて、もう一本の割り箸の先と絡めるようにして、あめが白くなるまでこねくり回しました。このおかげでしょうか、今でも割り箸をいろんな意味で上手に使えます。他にも長土塀や武家屋敷の町並み、犀川や浅野川の流れ、卯辰山からの金沢市内の眺めなどが鮮明に残っています。そのためでしょうか、金沢市は、私にとっての第二の故郷に思えてなりません。
それに私の母は、金沢弁が抜けなかったもので、私は片言ですが、金沢弁が使えます。東京生まれの私にとっては、クニの訛りに憧れるところがあったのです。東京人の多くは、訛りを馬鹿にする傾向がありますが、私は逆で憧れを持ってました。母方の親類同士が金沢弁で楽しそうに話をしている姿、周りの人には解らない言葉を自在に操るその姿に感動すら覚えました。自分のあんな風にしゃべってみたくて、必死に母たちの会話を聞き、金沢弁を覚えたものです。今でも母との会話は、金沢弁に近いものになってしまいがちです。
でも、私の本当の故郷は、新宿区下落合です。小学校4年生までを過ごした町です。あの頃は、まだ昭和の真っ只中でしたから映画「ALWYAS〜三丁目の夕日〜」のままの世界がありました。「はずれ」しか出ないくじが置いてある駄菓子屋さん(私たち子供は「はずれ屋」と呼んでました)や銭湯、立ち飲みのコーナー(?)がある酒屋さん、鐘を鳴らしてやってくる屋台のおでん屋さん、ラッパを吹きながらやってくる豆腐屋さん、見事な自転車捌きで路地を駆け抜ける蕎麦屋の出前のお兄さんなどなど、あの映画のまんまの世界がありました。
駄菓子屋さんには本当にお世話になりました。今思うにあそこで社会を学んだような気がします。まずは『大人はずるい!』。先ほども書きましたが、駄菓子屋のくじほど当たらないものはありませんでした。それでも子供ってやっちゃうんだよねえ。「今度は、それなら当たるよ。」みたいなことをおばさんは言うんだけど、それが当たったためしがない。その上、おばさんが「あらへんねえ、またはずれたねえ〜。」なんて平気で言うんだ、これが!ここで子供は、大人の狡さや汚さを学んでいくのです。次に『社会の上下関係』を学びます。もう言わなくてもわかると思いますが、年上の子から怒られたり、いじめられたりすることで、自然と上下関係だけでなくルールも覚えます。そしてなにより『お金の大切さ』を学びます。少ない小遣いをいかに有効的に使うかを子供心に必死になって考えました。時には、友達と共同戦線を張って、いかに効率よく、友好的に使うかを無い知恵を絞ったものです。
銭湯も思い出の場所です。家にも風呂はあったのですが、時々なんらかの事情で銭湯に行きました。広くて熱い湯船、富士山の壁絵、脱衣所の扇風機、湯上りのコーヒー牛乳の冷たさを憶えています。当時は、内風呂が無い家も多くいつもいっぱい人がいました。銭湯のすごいところは、来ている人を年齢順に並べたら人間の一生が見れたところでしょう。赤ん坊からおじいさんまで全部揃ってました。それを見て、『ああ、自分もああなるのか…』ということを知っていくのです。ここでも年長者から風呂の入り方、年配者への礼儀作法、心遣いを教わったものです。あの銭湯もずいぶん前に無くなったそうです。寂しいなあ〜。
以前、自分が住んでいた下落合に行った時の思い出は、「この道、こんなに狭かったんだ!」と感じたことです。子供の時、友達と走り回った道、蝋石でいたずら書きをしていたあの道がこんなに狭かったとは・・・。広く思ってたあの道が単なる路地にすぎなかったことを発見した時は、ショックでした。あの頃は、昆虫や蛇もいました。親父が捕まえた青大将(へび)を近くの妙正寺川まで捨てに行ったのも覚えてます。ずいぶんとご無沙汰してますが、あの町は、今はどうなったんでしょうねえ。一度子供たちを連れていってみようと思ってます。
今回の震災で多くの子供たちが故郷を失くしました。息子の学校にも東北から幾人かの転校生がありました。彼らの故郷は、必死になって立ち直ろうとしています。以前と全く同じ故郷の再生は無理でも、新しい故郷での新しい思い出作りができるように願ってやみません。また、ここが彼らにとって第二の故郷になってくれるような町にしたいものです。