わたし・久保田雅人(くぼた・まさと)のまわりで起きた「あんなことこんなこと」・・・。
全国でのイベント裏話や名物・名産、身の回りでのささやかな「出来事」をお話していくつもりです。
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 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と書きだしましたが、これを書いているのは、まだ12月です。当たり前です。ですので、「あけまして」という気分ではないのが本当のところでもあります。

 さて、相変わらずの日々の私ですが、柄にもなく「今年一年を振り返って」なんぞをやってみましょう。何と言いましても、13年の最大の出来事は、「つくってあそぼ」の放送終了です。昨年2月9日の発表以来、数多くのメールもいただきまして、ありがとうございました。『どうして終わるの?』というメールが圧倒的に多かったですねえ。これには、本当に困りました、だって、どう答えていいのかわかりませんから。『NHKの強い要望』な〜んて言ったって、子供たちにはわかりませんよねえ(笑)。大人だってわかりずらいか(笑)。そして、3月29日で「つくってワクワク」が終わり、翌日30日に「つくってあそぼ」が終わりました。この日のメールの多さと言ったら、もの凄い数でした。皆さんには、返信できずに申し訳ございませんでした。しかし、全てのメールを保存してあります。改めて読みたいところですが、このまま保存しておきまして、老後の楽しみにさせていただきます。

 番組の終了には、本当に寂しいものがありました。なにしろ、23年間も続いた番組でしたから、もう自分の生活すべてが番組ありきのものになっておりました。といっても今でも「わくわくさん」としてやっているわけですが。NHKに定期的に通い、いつものスタッフで、いつもの通りに楽しくも厳しい番組収録をし続けた23年が、この日を境に無くなってしまいましたわけですから、寂しくないと言えば嘘になります。本当に楽しくも厳しい23年でした。

 さて、これまでに幾度となく聞かれたことですが、『23年間も続いた理由はなんですか?』。これは本当よく聞かれました。この答もまた難しいですねえ。これといった理由が私のも思い浮かばないのです、本当に。しいて言えば・・・という前置きの元にいくつか挙げてみましょう。

 @スタッフが皆、元気で長生き。平成2年4月3日の放送第1話の収録時のスタジオにいた主要なスタッフが全員、平成25年3月30日の最終話の収録スタジオにいました(笑)。これってすごいことでしょう、全員が健康で長生きなんですから。それだけに「あうんの呼吸」が整い、「ツーカーの仲」での意見の言い合い、また、笑いと苦悩の絶えないリハーサルと本番、というものが長寿番組を生み出したのではないでしょうか。

 A対抗する(敵対する)番組が無かった。この日本で『工作だけを主体とする幼児向け番組』というものが私たち以外に無かったことが長寿番組につながったのではないでしょうか。幼児向け番組と言えば、当然のように歌やダンスや手遊び、それに他のコーナーが組み込まれていましたが、「つくってあそぼ」には、それらがありませんでした。本当に工作だけでした。工作だけで23年間も続いた番組は、もしかしたらギネスものかもしれません。

 Bなんといっても内容が面白かった。工作のアイデアを生み出し続けたヒダオサム先生という天才がいたことが、この番組を長寿番組にしました。ヒダ先生は、なんと「できるかな」の最初から造形スタッフとして参加されておりますので、「できるかな」で20年、「つくってあそぼ」で23年ですから合計43年間も工作アイデアを担当されていた方なのです。このような天才がいたからこその長寿番組でした。そしてもうひと方、ディレクターの田村洋さんです。田村さんは、NHK教育テレビが放送を開始した当時から番組を作ってこられた方なのです。私が幼稚園児だったころに見ていた「ブーフーウー」や「とんちん小坊主」、人形劇「紅孔雀」、そして「おーいはに丸」に「できるかな」などなど皆さんも子供の頃に見た番組を数多く生み出された天才ディレクターなのです。田村さんは、実は、番組放送期間中に定年を迎えられましたが、この番組だけは、引き続き担当されました。また、田村さんは、この番組の生みの親です。田村さんがいなければ、この番組は生まれませんでしたし、「わくわくさん」もこの世に生まれることが無かったのです。ヒダ先生、田村ディレクターという二人の天才のタッグがこの番組を生み出し、23年間も続いた最大の秘訣だったのです。

 私自身を振り返って思うのは、「人間の人生を豊かにする秘訣は、いかに多くの天才と知り合えるか」ということでしょう。このお二方がいなければ、私はおそらく違った人生を歩んでいたと思います。心より感謝、感謝の私です。

 さて、13年の出来事でもう一つ忘れられないのが、民放に出始めたことですねえ。今迄とは全く違った番組作りの世界です。バライティ番組には、打ち合わせやリハーサルといったものがほとんどありません。スタジオに入れば、そのまますぐに本番です。それだけに出演者のアドリブ的な反応力、トークの力量が必要なわけです。私などまだまだ対応しきれずにおろおろするばかりですので、『52歳のオールドルーキー』といった具合です。他にも数々の出来事がありましたが、辛くも楽しい思い出となりつつあります。

 今年は、どんなことがあるのか楽しくも不安でもある今日この頃です。






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